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1944年(昭和19年)国有化と同時に廃止された、旧武蔵田中駅跡のモニメントの画像を頂いた、車止めと転轍器が写っている、転轍器は普通転轍器(通称ダルマ)で何処にでもあるものですが、製造メーカー名が鋳抜きさている、始めてお目に掛かった。
中込駅に隣接する車輌基地です、車輌はキハ110系が22輌、キハE200形が3輌で合計25輌が在籍しています。
八ヶ岳南麓の権現岳である、スケッチの方は06.10.28に描いたもので、写真の方は、この10.27に撮った物、同じ場所からのものであるが微妙に違う、レンズと肉眼の違いであろうか?スケッチの方が温かみがある。(自画自賛かな)
今は無き「立川機関区」のED164の画像(フイルム写真)を提供して頂いた、本機は1931年(昭和6年)日立製で同年甲府に配属されています、1984年(昭和59年)八王子で廃車とのこと、実に53年間走り続けたことになります。(南アルプス市の若草支所に15号機が保存されているとの事、機会をみて訪問することにします)
引田駅について調べました、高徳線に引田駅がそんざいします、開業は武蔵引田の方が早いのですが、私鉄で開業したので遠慮したのでしょうか、それにしても五日市線何故か懐かしい雰囲気があります、(画像はMollさん提供)
裏磐梯の五色沼の画像が届いた10月23日の撮影とのことである、もう少し経つと綺麗な紅葉狩ができるのだが(我が国の紅葉は一目五色で世界一美しいとのこと、何処かで聞いた気がする)
マヌ34を従えたEF1311の画像(フイルム写真)を頂きました、1971年(昭和46年)3月の「甲府駅」1番ホームでのものです。本機は1944年(昭和19年)川車で誕生、1954年(昭和29年)EF5816の車体に交換、1978年(昭和53年)に八王子で廃車になっています。
EF58の旧車体(プラ製)デテールに拘らない普段着の下回りにして伝導はインサイドギァーの2ケモーターパンタは河合のPS14を使用して簡単に造りたいものだ。φ15.5の車輪を6軸調達してからのはなしですが。
当地では、標高900mを境に蕎麦畑が棚田の様にひろがる、丁度収穫が始まったところである、画像では遠くに富士山が眺望できる。(信州信濃の新蕎麦よりも、わたしゃ、あんたの傍がいい)は都都逸である。
ゆりかもめ新橋駅前に鉄道唱歌碑がある、なんでも昭和32年(1957年)鉄道開通85周年記念に建立したものとの事である。作詞者の大和田建樹は宇和島藩の人で藩校の「明倫館」で幼時に学問を修めている、そう云う縁で宇和島駅前にも鉄道唱歌碑がある、管理人が卒業した「明倫小学校」には建樹直筆の額が保存されている、唱歌の直筆額の方は大宮の「鉄道博物館」に保存されているとの事である、建樹の作詞で著名なものに「故郷の空」がある。(夕~空はれて、秋風ふく---)(画像はイー坊さん提供、彼も同じ小学校の卒業生である)
当地では珍しい「石榴の木」を発見した、比較的大きな木で郷里の庭にある「石榴の木」と、どっこいどっこいである。何年か前に帰郷した折詠んだ句がある(「群青の宙に名残りの石榴あり」ハーイ)
能勢電の1700系は元阪急宝塚線の2000系を改造したものだそうだ(改造ヶ所は前面に方向幕が付いたのとワンマン化にしたことである)同じ阪急の譲渡でも500系や600系の時代は能勢電らしさがあった様な気がするのは管理人だけだろうか、(雲雀丘花屋敷に顧客があり月に一度集金のため訪問したことがある、随分遠くまで来た記憶がある22、23歳のころであった)
五日市線「武蔵増戸駅」の画像を頂いた、この駅1925年(大正14年)五日市鉄道の停留所として開業しています、頭に武蔵とあるので「増戸駅」を探してみたが見渡りませんでした「益子駅」に遠慮したのか、不明である。(提供はMollさんでした )
月末に横浜で催される集会にOn30のモジュールが出展されるとの事で旧作Cタンクの走行テストをしてみた、10年以上走らしていなかったので少し心配したが「案ずるより生みが易し」であった。(このCタンクは本稿に掲載済)
にしふじの簡易軌道に運転台車が登場しました、いまのところフラットカーの状態ですが、これから椅子(腰掛)の据付とコントローラーがワンタッチで取付出来る様な工夫をします、前方にあるパイプ(SGP3/8”)は足掛けです。
キノコについては知識が無に等しいので、当地のベテランの方と山に入りました、キノコのある方に自然と足が向くのはさすがでした、早速牡蠣鍋にして、うどんすきで〆ました、自然の恵みに感謝。(「洛中の 汽笛聞こゆる 菌山」高浜虚子)
事業用電動貨車202の画像を頂いた、この車輌阪神標準の連結器の他に作業車(トロッコ)牽引用のリンクも取り付け可能なようになっています、202は運転室寄りに2tの電動ホイストを備えています、画像に写っているアーチ窓のレンガ造りの建物が少し気に成ります。(管理人が阪神電鉄を利用したのはジェットカーが就役した昭和33年元町から梅田と同年甲子園へ巨人、阪神のダブルヘッダーを観に行くため元町から800系[模型を記事にしています]にのったのと、何かの用で梅田から打出が2回[以上往復]と近年、同好の集まりで芦屋から武庫川まで乗った9度のみである)
日中は半袖で過ごす日が続きますが、周りの落葉樹も色づき始め少しづつ秋の近づきを感じます、散歩の途中で「金木犀」の香りに誘われて撮ってきました、いい香りです。(「古希なれば金木犀の香を惜しむ」宮下倫一)
山寺駅に進入する719系電車です、この線、以前はDC1500Vでしたが今はAC20000Vです。因みにAC試験が始めて行われた線で、ここでのデータが後の新幹線につながったとの事です。(提供はイー坊さん、俯瞰的なところがいい)
時期がすこし遅くなりましたが、散歩の途中田圃の土手に咲いていました。その昔「長崎物語」という歌謡曲があったことを思い出しました。(紅い花なら曼珠沙華、阿蘭陀屋敷に雨が降~る)
滑津から乗った列車は「小海」行きなので「中込」で下車、次の上りまで時間があったのでランチを済ませようと駅前を散策、生憎どこも定休日で断念、せめて立食い蕎麦でもあれば良いのですが、誠に残念(費用は甲斐大泉~中込往復1900.-滑津~中込140.-ジュース代120.-計2160.-)
中込で発車を待つ232D
羽黒下駅
野辺山駅を出発
甲斐大泉を出て行く232D(次の停車駅は甲斐小泉で~す)
道に迷ったので、「中込」へ帰る程時間が掛かりました、「滑津駅」は1916年(大正5年)佐久鉄道の停留所として開業しています、一時廃止されていましたが1952年(昭和27年)再開されています。 滑津に到着する134D「小海」行 中込に停車中の134D
見学を終えて帰路についたのですが、「中込」まで歩くのは苦痛なので最寄駅の「滑津」への途中、始めて樹に成っている「かりん」の実をみかけました。
ガソリンカーの隣にC56101が鎮座しています、1937年(昭和12年)三菱・神戸で落成、同年仙台管区の白山に配属、1973年(昭和48年)上諏訪で廃車になり、同年現在地に保存されています、(小海線を走ったかどうかは不明)
中込学校の隣(成知公園)に保存されている旧・佐久鉄道のキホハニ56です、1942年(昭和17年)まで小海線で使用され、最後は別府鉄道で1984年(昭和59年)まで活躍したそうです。別府鉄道廃止に伴い以前の姿に復元して里帰りを果たしています。(学芸員さんのご好意で柵の中まで入ることができました)
車内の様子、奥に荷物室が見える
佐久鉄道の社紋(サを9ッ放射形にデザインされている)
明治の校舎が現存するとのことで訪問した、駅員さんの話だと徒歩で20分との事、頑張って歩いたのだか20分歩いた所で後0.6Kmの案内板、10分ほど歩いた所で前方に見えて来た、予測と実際が違うと凄く疲れる。とわ云え旧中込学校は明治8年開校で現在は国指定の重要文化財にしていされている、応対して頂いた学芸員の方に感謝。
甲斐大泉に入線する225D
野辺山~ 信濃川上
千曲川(海ノ口付近 )
中込を出て行く225D
小屋の前に林があるのですが、桜(山桜)が色づきました、手前の樹はコナラですが未だ「どんぐり」は落ちてきません、彼岸前までは、うるさい位鳴いていた虫の音も今はしません。(だれかさんが だれかさんが だれかさんが み~つけた)
メーカー完成品の空制化B6です、フレームが洋白のエッチング板でスプリング可動ですが、動輪押え板ではなくロストの担いバネで組立てられているのが特徴です。第一動輪にコンタクトホィールが付いていますのでその内スピーカーの搭載をしましょうか。
稲は天日乾しすることにより、甘味がますそうです、最近は人手不足でコンバインによる刈り取りで強制乾燥しているそうですが。(当地では、”はざ”の事を”うし”と呼んでいます)
Mogulさんから京阪606の画像を頂いた、撮影場所は浜大津の近くとのことである、背景に一六銀行の立派な建物が写っている、昔、質屋といえば裏通りの目立たない処にあったものだが、最近はリサイクルショップとして活用されている様だ。話は変わるが坂本に穴太(あのう)と云うところがある、中世の昔、この地の人は「穴太衆」と呼ばれ城や寺社の石垣造営に携わっていた。長くなるので割愛するが「穴太衆」の石垣を「穴太積」というが、これは「野面積」の一種である。
今年初めての栗の収穫です、2日続けて夕食は栗ご飯を食しました、もち米を少し混ぜた方がよかったかな、塩を少し入れるのがコツです。(子供の頃、誕生日に栗お強を作ってくれた、あの味が忘れられない)